■エッセイ■
山代巴を深める旅──2020年2月、福山から筑豊へ

牧瀬 暁子



(2)筑豊への旅

 ところでキアラさんは講演に先立つ一か月前の1月に、明治大学の竹内栄美子先生から託された『初期社会主義研究』28号(2019年)を私に届けてくれていた。そこには竹内先生の論文〈資料紹介〉「山代巴「聞き上手な啓蒙家 上野英信の死を悼む」のこと」が載っていた。これは、山代さんの夫、山代吉宗の磐城常磐炭鉱争議の総括について、上野英信が山代巴に聞き出した経緯を上野英信が亡くなった1989年の追悼文に書いていたのだが、割愛されていた部分が今回、上野英信のご遺族から提示され、全文を整理して紹介したものだった。

 このことについて、牧原は『山代巴模索の軌跡』第一章の注でも触れているが、今回、私は改めて山代さんの追悼文を読み、上野による、山代さんの書いた「山代吉宗のこと―『磐城・入山二大炭鉱争議の経験』の解説にかえて」(『近代民衆の記録2-鉱夫』所収)に対する批判と助言を読んだ。「僕はあれで終わらせてはいけないと思う。記録文学としてもっと人間を浮き彫りにして大衆の読み物にすべきだ。……そういった仕事がいま我々に課せられているのではなかろうか……要約すればそういうことになる助言を彼は熱っぽく説いた」。山代さんは上野の助言を実行に移そうとしたが、備後路の無風地帯の谷間に育った山代さんにはそれは難しかったので、「結局私は、吉宗と結ばれたことによって起こった、検挙と囚われの中での歩みを書くことによって炭鉱のドキュメントを書く力を得ようとして『囚われの女たち』を書くことになった」という。『囚われの女たち』第二部『金せん花と秋の蝶』の「蜂起の鉱山(やま)に近づく」や、第三部『出船の笛』の「磐城への旅」はこうして書かれたのだとわかった。改めて『囚われの女たち』を見てみると、山代さんは、争議の記録や裁判資料、当時の新聞などを実に丹念に調べて小説に書き込んでいる。例えば吉宗さん(小説では吉野常夫)が水戸刑務所の未決にいるころ獄中通信として送ってきた「一九三〇年の雑誌『戦旗』に二度にわたって連載された『磐城・入山二大炭鉱争議の経験』だとか、その連載には割愛されたという「争議以前に於ける運動小史」の中身まで同志・大井川基司に語らせている。昔〈山代巴を読む会〉でこの巻も読んだはずだが、何も覚えていなかった。1981年に出たこの巻を読んで上野英信は納得したろうか。

 私は、「聞き上手な」上野英信、という山代さん独特の表現に惹かれ、上野英信自身について知りたくなり書棚を探すと、彼の著書『どきゅめんと・筑豊―この国の火床に生きて』(社会新報刊、1969年)がみつかった。この新書を牧原は刊行直後に購入したとみえて、69.8.9の日付とサインがあった。山代さんもこの「ドキュメント」を読んだろうか? 『囚われの女たち』に炭鉱のことを書いたのは10年以上あとの1981年である。上野は、この小冊子の「あとがき」で、この十年に書き溜めたものを寄せ集めた泣き節にすぎないと言いながら、「いまさらのごとく痛感するのはこの60年代が炭鉱労働者にとってなんと残酷な月日であったかということ、これほどおびただしい労働者の血が地底で流され、これほどおびただしい失業者群が地の果てまでさすらいつづけた十年は、そうざらにあるものではない。滅びゆく石炭産業の挽歌というには、あまりにも痛ましい犠牲である」と記しているが、上野自身の経歴―47年、京大中退、54年まで筑豊の炭鉱で抗員として働きつつ「サークル村」等の文学運動を組織した―を知って本文を読むと、自らおんぼろの廃坑長屋に住み、抗夫として現場、それも中小炭鉱で働いていたからこそ書けた文章の迫力に私は圧倒された。特に被差別部落や与論島出身者、朝鮮人等々、差別されてきた抗夫、また女性や少年へのまなざしが優しくも鋭く胸を打った。

 私は、牧原亡きあとの2018年5月にいわき市の〈常磐炭田史研究会〉で山代巴・吉宗夫妻について話をする機会を得て、会場の〈石炭・化石館〉に行き、地下にある石炭展示室の見学をしたことがある。吉宗さんは、若い時にこの常磐炭鉱の学士飯場頭として争議を闘ったが失敗した。その失敗に学んで、結婚した巴さんとともに京浜に移り住み、新たに活動しようとしたとたんに治安維持法で捕まり、1945年1月に広島刑務所で獄死したのだった。上野英信は、同じく学士であり抗夫でもあった吉宗さんの若き日の鉱山での闘争記録を山代さんにきちんと書いてほしかったのだと思う。

 そんなわけで、福山への旅のあと、2月28日、たまたま九州大学韓国研究センターでの研究集会に参加することになっていた私は、せっかく福岡まで行くのだからついでに筑豊にも行きたいと思った。ひとえに、上野英信の『どきゅめんと筑豊』を読んだがゆえだった。コロナウィルス騒動で研究会自体は流れてしまったが、翌29日、福岡市博物館長の有馬学氏が筑豊炭鉱跡地を案内してくれることになった。研究会のパネラーでもあった彼は、私とは高校が同窓、九州大学教授だったころには同じ日本史研究者として牧原も知っていた間柄である。

 当日、雨の中、有馬氏の運転するレンタカーで向かった先は、もと三井田川鉱の跡地に建つ〈田川市石炭・歴史博物館〉だった。1階の展示室で筑豊炭田解説映像「石炭~100年の嵐~」をまず見てから、「三井田川伊田竪抗模型」「手掘り採炭道具」「機械採炭道具」「採炭現場のジオラマ」を見て回る。いわき市の石炭展示室とはスケールが違い、明治以来百年の筑豊の歴史を実感させる展示だった。2階に上がるとユネスコ記憶遺産「山本作兵衛コレクション」の展示室があった。上野の『どきゅめんと筑豊』の終章「この国の火床に生きて」(『朝日ジャーナル』1968年)には、「暗黒の記録者たち」として、山本作兵衛の画文集『炭鉱(やま)に生きる』が、心ある人々の深い感動を読んでいる、と書かれている。また、著者の作兵衛さんは、自分のかいたものがこんな本にまとめられ世間に騒がれるよるようになろうとは、ゆめにも思っていたわけではない、もっぱら「炭鉱を知らない孫たちのために」かき残しておいてやりたいの一念からだった、という。とすると、2011年、世界遺産となって脚光を浴びるようになるずっと以前、40年以上前に作兵衛さんは世に出ていたわけだ。私が福岡から帰って、家にあった『新装版画文集・炭鉱に生きる』(講談社、2011年新装版第3刷)の奥付を見ると、確かに「初版1967年第1刷」と書かれていて、冒頭に上野英信「序にかえて―山本作兵衛さんの仕事の意味」があった。60年代に作兵衛さんのブームがすでにあったということは有馬さんも先刻ご承知のようだった。すでに廃坑となって何も残っていない筑豊を世界遺産に推挙するには無理があったが、かろうじて作兵衛さんの画文が記憶遺産となった経緯を聞かせてくれた。

 何もないとはいっても、館の外に出ると巨大なレンガ造りの二本煙突がそそり立っているのが目に入る。蒸気機関の排煙用煙突で明治41年造、炭坑節「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん、けむたかろ」のモデル?とか。(なお、有名なこの炭坑節も、かつては未解放部落の歌(エッタ節)などと言われておおっぴらに歌えなかったという老婆の証言が『どきゅめんと筑豊』には書かれている。真偽のほどはわからないが、これを書き留めた上野英信の思いは心に残る)。煙突の向こうには、巨大な三角形のジャングルジムみたいな、鉄骨を赤く塗った竪坑櫓(やぐら。地下深部から石炭を採掘する巻上機の支柱のようなもの?)がナウシカの巨神兵みたいに突っ立っている。博物館のしおりを見ると〈産業ふれあい館〉と称する復元炭抗住宅もあったようだ。上野英信が住んでいた「納屋」がどんなだったか見たかったが、今回は覗くこともなかった。裏手の高台に上ると朝鮮人抗夫の慰霊碑があった。見下ろす田川の町、かつては炭住が立ち並びにぎわっていたであろうが、雨にけぶってひっそりとしている。筑豊鉄道田川伊田駅のトンネルをくぐって人気のないシャッター街を歩き、有馬さんご推奨のご当地B級グルメ田川ホルモンの店を訪ねたが、なんとランチタイムは過ぎたということですげなく断られた。前日、福岡市内でも、コロナウィルスのせいであらゆる博物館が閉鎖で何も見られなかった(唯一、市民福祉プラザロビーで資料展「引揚港・博多」を見られただけ。引揚げ者女性で臨まない妊娠をした人たちに対して堕胎手術を誘導案内するチラシ?は、それと知らねば読み取れない文面の小さな紙片だった)。まあ、福岡にはもう一度来なさい、ということでしょう。レンタカーを返してから、福岡空港の食堂で有馬さんをねぎらって博多モツ鍋を食べ、空路、帰途についた。

   *    *    *

 こうして、2月、山代巴に導かれての広島・福山、そして福岡・筑豊への旅が終わったのだが、3月に入って、内田千寿子さんから『地下水』409号が届いた。そこには「何故私だけ残されたのか」と題して内田さんの近況が綴られていた。
 「2月27日。被爆者検診を受けた。先生は九七才の私に、悪い所は無いです、少し減塩した方が良いかな。と。」とあり、帰りにマーケットに寄って鮮魚売り場で大きな真鯛を一匹買った。「この機会に、治安維持法で捕らえられていて、S一五年からS二十年一月初めまで、廣島の刑務所に捕らえられていて、体重七貫目(二八キロ)まで痩せこけて亡くなった。山代さんの夫、山代吉宗さんを、山代さんは「殺された。殺された」と残念がっておられたが、私もやっと山代さんの事を、雪が舞う庭に、痩せこけた死体を現実に見る思いがして来た。」当時は山代巴さんも獄中にあり、「多分誰も追悼の場を踏んでいないだろう。私は私だけで追悼の心を表現する為に、白いご飯を炊き、塩焼きのおかずと、お茶の影膳を作り、東向きに据えて、二月の二九日、うるう年の空白の日に傍らでゆっくりと食事を済ませた。」とあった。添えられた直筆のお手紙には「先般は山代巴を深める会で大変お世話になりました。此のとしで?と思っていたのに一役前に出る時を廻りから作られた感じでしたが私を引き立てられて又々長いきをしそうです。山代吉宗さんとお食事をした思いでした。」とあった。その後も元気なご様子に安堵し、吉宗さんに影膳、というくだりに胸打たれた。
 内田さんの「山代巴を深める会」という表現に感じ入ったので、それに倣って、この2月の私の旅の記録を「山代巴を巡る旅」ではなく、「山代巴を深める旅」とさせていただき、〈牧原憲夫を語る会〉をきっかけにお世話になった多くの方々への感謝をこめたレポートとしたい。


(付記1)コロナウィルスは、その後、ヨーロッパにも拡散し、日々報道に案じる中、イタリアはミラノの高校の校長先生が生徒にあてた手紙を読んで感銘を受けた。冒頭に、マンゾーニの小説「いいなづけ」の31章冒頭、1630年、ミラノを襲ったペストの流行について書かれた一節を挙げて、「この啓発的で素晴らしい文章を、混乱のさなかにある今、ぜひ読んでみることをお勧めします」とある。調べてみると、マンゾーニは十九世紀の作家で、彼が死ぬとイタリアは国葬にし、その一周忌にはヴェルディは彼のために『レクイエム』を作曲した、というほどの国民作家だそうだ。彼はイタリア統一運動(リソルジメント)を文化的側面から支える役割も担い、近代イタリア語の形成に影響を与え、『いいなづけ』はイタリア国民必読の書とまで言われている、と聞くと、キアラさんもきっと読んだことだろうと思った。ところが、その後、イタリアの状況はますます悪化、キアラさんが心配になって電話をかけてみたが、通じない。イタリアに帰ったのではないかと案じていたところ、きのうになって、なんとブラジルのサンパウロから無事ですとのメールが届き安堵した。どこにいても無事でさえあれば、いずれオックスフォードに戻り論文を書き上げ、また日本に戻ってくることもできるだろう。また逢う日まで、キアラさん、元気で頑張ってね!とメールを送った。(2020.3.20)
(付記2)キアラさんの講演会場で金髪の老婦人に話しかけられ、名刺をもらった。広島市在住のアメリカ人、リア・スミスさんと知り、〈山代巴を深める旅〉を送ったところ、4月になって「レポートをありがとう!」というメールが届いた。そこには、「牧原憲夫著『山代巴模索の軌跡』をかいました。これからよみます。『囚われの女たち』すべてをもっています。日本の社会主義の歴史に興味のある私にとって、一番読みたいです。23才のとき、大学で知り合った日本人と結婚して、1973年にきました。独学で日本語。1985ごろ住井スエさんの『橋のない川』を自分で本屋で見つけて、読み始めた」とあり、当時、結婚生活で苦しい思いをしていたが、本を通して自分の生き方を考え直し自立するなかで、解放運動、部落差別、いじめ問題で多くの学校、公民館、団体で講演を頼まれるようになったこと、「今は70さいのお婆さんになって、研究や論文を書くことはないでしょう。山代さんの愛読者です。ずっと一人で勉強しつづけます。参考になる資料や本を紹介してください」と結ばれていた。私は『増補山代巴獄中手記書簡集』(而立書房)に添えて、〈山代巴を読む会会報〉全13号と、会が作成した〈『囚われの女たち』登場人物総索引〉を送ることにした。山代さんを必要とする人がいる限り、本を届けたいと思う。(2020.5.3)

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牧瀬 暁子(まきせ・あきこ)
『山代巴模索の軌跡』の著者(故)牧原憲夫(1943-2016)の夫人。牧瀬は筆名。
1946年東京生まれ。都立大学卒。山代巴とは母、牧瀬菊枝を介して知り合い、1974年、牧原憲夫と結婚する機縁ともなった。
大学卒業後、地方公務員として働く傍ら朝鮮語を学び、退職後の2002年、韓国留学を経て、朝鮮文学の翻訳、研究に従事。現在、現代語学塾韓国語講師。