■エッセイ■
山代巴を深める旅──2020年2月、福山から筑豊へ

牧瀬 暁子



(1)福山への旅

 イタリア人の山代巴研究者、キアラ・コマストリさんが今年2020年2月に広島県〈ふくやま文学館〉で、「オックスフォード大学で山代巴を読む」と題する講演をすることが決まったのは、昨年秋のことだったろうか。彼女は昨年9月に東京経済大学で開かれた〈牧原憲夫を語る会〉の会場にひょっこり現れ、久しぶりに会うことができた。かつて大阪大学で指導を受けた宇野田尚哉先生に伴われてのことだったが、その後、お二人は我が家にもたびたび訪れ、牧原の遺した山代巴関係の蔵書・資料を見たり、1980年代の〈山代巴を読む会会報〉や〈関東地区読書会だより〉などをスキャンしたりコピーをとって行った。現在、彼女はオックスフォード大学大学院歴史学研究科で博士論文を準備中とのこと。山代巴を客観的に論じるため、さらに資料を探すなかで、『農協30年史』の記事の中に『映画・荷車の歌 感想文集』があったことを見つけ出した。映画は山代巴の原作(1956年)をもとに、1959年、農協婦人部が10円カンパで作成したものだが、その上映を見た全国の農村婦人たちの感想が載った文集を彼女はぜひ読みたいという。私も八方探すうち、牧原の追悼会で山代巴について語った、元水戸農協の先崎(まっさき)千尋さんに問い合わせたところ、なんと「ぼく、持っています」とのことで、すぐに送ってくださり、キアラさんが喜んで飛んできたのが暮れも押し詰まってのことだった。

 2月16日の講演当日、私は新幹線で福山駅に1時ごろ着き、近くの〈ふくやま文学館〉に駆け付けた。雨の中、会場はほぼ満員(100人近く?)で、古くからの山代ファンと思われる年配の方々が多いようだったが、最前列に小柄な内田千寿子さんがちょこんと座っておられた。内田さんは、高齢で足も弱く耳も遠いので、翌日、お宅を訪問する予定だったが、甥御さんの皿海(さらがい)達哉さん(児童文学作家、元ふくやま文学館長)運転の車で甲斐等さんのお姉さん、裕子さんと一緒に来た、とおっしゃる。

 キアラさんの講演は周到に準備されたパワーポイントを使って、山代さんの地元広島の人びとにも分かるように工夫されていた。なぜイタリア人のわたしが山代巴に関心を持ったか、自己紹介から始まった。彼女の祖母はファシストに抗して命がけで戦ったパルチザンだった。スクリーンには、おばあさんの若き日の写真、証明書、そしてパルチザンの記念碑に花を捧げる姿などが映し出された。伝令の役を負ってパン籠にメモを忍ばせて歩いていた時にファシスト兵に誰何されたが、一番底までは見なかったので命が助かったというエピソードも語られた。しかし、私が今回驚いたのは、ともにパルチザンとして戦ったおばあさんの兄弟二人が戦争末期に連合軍の空襲爆撃で命を落とし、イタリア解放の日を迎えられなかったという話だった。講演の後で、文学館の裏手にある〈福山市人権平和資料館〉をキアラさんと一緒に見学したが、そこには、福山市が1945年8月8日夜の大空襲で焼き尽くされた惨状の展示があった。8日といえば、6日の広島原爆投下の後のことである。イタリアと日本、ともにファシズム国家であったこと、それに抗ったキアラさんの祖母、戦争中に治安維持法で捕まり夫は獄死してしまった山代さん、イタリアも日本も襲った連合軍の空襲、そして原爆の惨禍…。山代さんが原爆の惨状を目にしたのは45年の11月、GHQの出頭命令で広島に着いて駅前広場で浮浪児らとともに焚火を囲んで一晩を明かしたのが最初だが、GHQからは原爆について発言したら沖縄送りにすると脅されたという。しかし山代さんはその後、原爆スラムに足を運び、『原爆に生きて-原爆被害者の手記』(1953年)や『この世界の片隅で』(1965年)を世に出した。キアラさんは、『原爆文学研究』13号(2014年)に「被爆体験を〈書く〉―山代巴と『原爆に生きて』『この世界の片隅で』を中心に」を、近刊の18号(2019年)には「原爆被害者と農村女性をつなぐ〈表現〉と〈活動〉-山代巴と手記集『原爆に生きて』をめぐって」を書いて、山代巴の思想と活動について考察を深めている。

 キアラさんの講演は、山代さんの戦前から戦後にかけての多岐にわたる活動のすべてを語ることはできないので、限定的に紹介すると断りながら進められたが、そこで私がもうひとつ驚いたのは、暮れに発見された、あの『映画 荷車の歌 感想文集』の表紙がスクリーンに映し出され、そのうちの二篇の感想文が紹介されたことだった。この新しい資料を得て、彼女は『荷車の歌』が山代作品の中で持つ重要性(象徴性?)をつかみなおしたのかもしれない。講演のあとで博士論文の構想について尋ねてみたら、彼女は、もともと『荷車の歌』はひとつの章で扱うことにして既に書いていたが、今は『荷車の歌』を軸にして各章を組み立てていく構成にしようかと考えている、と語った。どのように書き上げるか楽しみである。

 それにしても、日本ではほとんど忘れられた山代巴、ましてはキアラさんの祖母のように英雄として称えられることはおろか、戦中に治安維持法により三次の獄につながれたことや、戦後の共産党との関係など、今なお、また地元であればこそ複雑な事情を抱えているともいえる。戦後すぐの日本を「岩でできた列島」と表現し、民主主義の種が根を下ろすにはどんなに苦労するだろう、と言った山代さん。キアラさんは山代さんの生家跡を訪ねたりもしているが、地元の空気はかつて『荷車の歌』や『囚われの女たち』の読者たちが熱心に自らの生き方を語り合った時代とは様変わりしていることも感じているようだ。映画『荷車の歌』は今も農協の婦人たちが見る機会があるようだが、「あんな時代に生まれなくてよかった」の一言で済まされてしまうのでは、山代さんの意図は伝わらないことになる。その夜、福山駅まえの古書店を覗いたら、平凡社版の『山代巴獄中手記書簡集』はあったが、而立書房版のそれと牧原憲夫著『山代巴模索の軌跡』はなかった。キアラさんはオックスフォード大の図書館にはある、と言っていた。山代さんを今だからこそよみがえらせたいという牧原の遺志を継いで、イタリア人のキアラさんが世界に発信しようと奮闘してくれるのはありがたく、私もできる限り応援したいと思っているが、日本の私たちが今、できることは何だろう、としきりに考えさせられた。

 なお、今回の会場には、私の大学時代の旧友、富島昭圓さんが来てくれて約半世紀ぶりに邂逅した。彼は芸備線沿線の寺の僧侶として社会活動もしてきて、『中国新聞』を通じて山代さんのことも知っているというので声をかけたところ、奥さん運転の車で30分かけて駆けつけてくれたのだった。僧侶を引退?した今後も活動を次世代につなげていってほしいと願って、帰りがけに『山代巴模索の軌跡』や牧原の著作選集などを進呈した。

 翌日2月17日の朝、キアラさんと宇野田先生と三人で福山駅からローカル線の福塩線に乗り40分ほどで高木駅に到着。手動でドアを開け、無人駅に降り立つと、線路の向こうから毛糸の帽子をかぶった内田さんがシニアカーをトコトコ運転して迎えに来られた。今は駅の向こうは家々がびっしり建っているが、かつては畑が広がるばかりで、はるか遠くに山代さんの生家のある登呂茂谷(とろもだに)の集落が見はるかせたという。山代さんはその家々を指さしながら、どの家の嫁にも人権は無く、自由にできる金ひとつなかった、それを何とかしなければと内田さんに語ったという。その場所を教えたくて、寒い中、駅まで来たと内田さんは言われた。シニアカーの先導でお宅につくと、居間の炬燵にお茶の道具と黒パンが用意されていた。パンは内田さんが畑を耕し種まきから育てた麦を全粒粉にして手ずからオーブンで焼いたもの。軍国乙女としてお国の役にたちたいと看護婦養成所で学び、原爆投下後の11日、召集されて救護看護婦として広島の収容所で原爆被爆者の看護に従事したが、なすすべもなく、患者は苦しみながら亡くなっていった。自らも二次被爆に遭い、結婚後も内田さんを苦しめた原爆後遺症だが、ナイチンゲールの〈看護覚え書き〉を実践し、炎天下の農作業で汗をかいて体内から毒素を排出することで皮下出血性紫斑を克服し、97歳の今日まで元気に野良仕事を続けている。それは、内田さんが主宰し、今も自らワープロ印字もしている同人誌『地下水』(2020年2月号は404号)に毎号のように書かれていて、読んでいる私のほうが励まされている。内田さんはかつて牧原の呼吸器が弱いことを心配して、カリン酒を飲ませるよう勧めてくれたこともあった。私は直接お目にかかってやっとお礼が言えたことが何よりうれしかった。『牧原憲夫著作選集』を持参したが、下巻に山代さんのことが載っているので、特に読まれなくても彼からの挨拶と思って受け取ってくださいと置いてきた。内田さんが山代さんと出会い、50年代から始まった読書サークル『みちづれ』などを通じて自分をみつめ、生活記録を書き続けてきたことは、内田さんの著書『一九四五年八月からの出発』(1977年、而立書房)に詳しいが、今回訪問に際して改めて読んで胸打たれた。パンは、今は内田さんの朝食だが、チェルノブイリの救援に行ったときには現地の子供たちに喜んで食べてもらったという。そのときロシア語も少し勉強したというのには驚いた。チェルノブイリ、そして今は福島の原発被害者を支援する〈ジュノーの会〉の主宰者、甲斐等さんは、すぐ隣に住んでいるとのことで、あとで寄ってお話を伺ったが、内田さんは今も会に定期的にカンパを続けているとのこと。内田さんは思い出すまま、あれこれ語ってくれた。昔、私の母が紅茶キノコを勧めたこと、被爆者の健康維持にもよさそうだったが、原爆症の特効薬ではないとの報道がされてから飲まれなくなったとか。最近は、スイス人のドメニク・アヤさんが来て、ドキュメンタリー映画「太陽が落ちた日」(2015年)を撮ったこと。私はこの映画を見ていないのだが、アヤさんは原爆投下直後に広島で救援活動を行った祖父のことを取材するうち、当時看護婦だった内田さんを知り、内田さん自身が映画に出ることになったそうだ。アーサー・ビナードさんが来たときは、部屋がいっぱいになったが、何人来ても構わない、原爆のことはいくらでも話したい、と笑っている。疲れも見せず話し続ける内田さんだったが、昼も過ぎたのでパンをいただいて辞去することとし、寒いので炬燵に入ったままの内田さんと固い握手をして、私たちはお別れし、甲斐さんのお姉さんがぜひ寄ってくれと呼びに来た甲斐さん宅に向かった。

 甲斐等さん宅は、内田さんのすぐ隣。経営する学習塾の2階事務室に通された。甲斐さんとは、牧原の臨終の日、八王子の病院まで駆け付けてくださって以来の邂逅だった。そのときも、帰りの新幹線の時間を気にしながら、〈ジュノーの会〉で作っているという漢方の貼薬を私に貼ってくださった。甲斐さんは、山代さんとは学生のころからの長い付き合いとのことで、最初は中井正一の本を読めといわれたことから始まって、過去のことを滔々と話された。今度は私が新幹線の時間を気にすることになり、急いで福山に戻り新幹線に飛び乗って東京に戻った。

 福山駅には、江戸時代に朝鮮通信使が訪れたという名勝地、鞆の浦の案内があり、行ってみたかったが、それはまたの機会にするしかない。そもそも私は山代さんの養女三澤草子さんの住む広島市にも、三次の山代巴記念館にも行ったことがない。甲斐さんの話の中に、永久さんの名が出てきたので、帰宅後、アルバムを探したら、牧原と私は78年5月、吉舎を訪ねる旅で永久さん宅にいた山代さんに会っていた。地図で見ると吉舎駅は福塩線の高木駅より北、三良坂駅よりは少し手前。『荷車の歌』の舞台となった赤名峠は三良坂駅よりずっと北にあるので、中国山地に向かって吉舎もやまがちで涼しかったのだろう。『山代巴模索の軌跡』の年譜によれば、1977年(山代さん65歳)の項に「夏は吉舎で過ごす。『叢書・民話を生む人びと』刊行開始」とあるので、叢書の4巻『平木屋三代の女たち』(1982年、而立書房刊。「解説」山代巴)の著者、永久直子さん宅に寄宿して『囚われの女たち』の執筆にかかっていた頃かと思われる。部屋に魯迅の漢詩「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指、首を俯れて甘んじて為る孺子の牛」の額がかかっている写真があった。(この詩は、牧原の中学校の恩師山本平先生が卒業に際して贈ってくれた詩である。また、『山代巴模索の軌跡』の最後は、「山代巴の好きだった魯迅の言葉で本書をしめくくることとしたい」と結ばれていて、太平の魔よけ歌「おめでたい英雄よ、君は前へ進みなさい、見すてられた現実の現代は、後から君の進軍旗をうやうやしく送る。」が掲げられていた)。吉舎では、私たちは裏の畑で山代さんと一緒にチシャ菜を摘んだり、シイタケ栽培の山林や養豚場を訪ねたりしたのだったが、〈牧原憲夫を語る会〉でこれら山代さんと牧原のスナップ写真を映せばよかった、キアラさんにも見せたかったと思った。なお、牧原は2001年には三良坂町(現三次市)主催の集いに招かれ、遥洋子のトークショウ「三良坂で山代巴のカバチを学ぶ」で遥さんと丁々発止?の対談をしているので、三良坂も訪れている。私もあらためて、牧原がかつて訪れた山代さんの「模索の軌跡」をたどりたいものと思った。

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牧瀬 暁子(まきせ・あきこ)
『山代巴模索の軌跡』の著者(故)牧原憲夫(1943-2016)の夫人。牧瀬は筆名。
1946年東京生まれ。都立大学卒。山代巴とは母、牧瀬菊枝を介して知り合い、1974年、牧原憲夫と結婚する機縁ともなった。
大学卒業後、地方公務員として働く傍ら朝鮮語を学び、退職後の2002年、韓国留学を経て、朝鮮文学の翻訳、研究に従事。現在、現代語学塾韓国語講師。