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──森下スタジオ(東京)での公演『波間』(2024年)を興味深く拝見しました。
穴迫 『波間』はTHEATRE E9 KYOTOという劇場のアソシエイト・アーティストとして、2年目の公演でした。その京都での初演(2023年)の際は、自分が演劇をやることの理由みたいなものを見失っていて、迷いのあった時期でした。話も暗いし(笑)、自分の弱さを 明け透けに書いてしまったところもあったので、京都のクリエーションメンバーにはご負担をお掛けしたと思います。
その後の東京公演では、リクリエーションの醍醐味ですが初演による作品イメージをもとに出発できるので、リハーサルにてより深く内容を練ることができたように思います。
この作品がどういうふうにお客さんに受け取られるといいか、などについて俳優の皆さんと考えるところから始めることができました。なので京都公演を含めてみんなで作ったものの完成形として東京公演ができあがったという印象があります。
上演後の雰囲気やご感想を通して、良い形で届いているという実感もありました。
──京都と東京で違うものになっていたわけですね。それまでの作品にはどういったものがあるでしょうか。
穴迫 ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム“KIPPU”という企画で、2018年に『sad』という作品を作りました。そのときは、戯曲とリハーサルでの手応えが、お客さんの反応と合致したように思いました。
北九州では主に会話劇を作っていましたが、『sad』はモノローグが続く作品になっていて、自分の書くものの特徴はモノローグにあるかもしれないという発見がありました。俳優は8人いて、部分的に一人芝居の短編のような長さのモノローグが挟まるという構成でした。ものによっては5ページ喋り続けるとか……(笑)。
──なにか先行する作品の影響があったりもしたのでしょうか。
穴迫 高校ぐらいまでラップをやっていて、大学で演劇をはじめてから、その経験を作品に生かせないかと思っていました。すでに『わが星』(柴幸男・作)などラップを手法として取り入れている作品もありましたが、ラップはそもそも文脈的には一人語りや自分語りに近いので、あくまで個人のモノローグとして上演の中に組み込むことはできないかと……。それは近年の作品にも手法として残っている部分があります。
──ブルーエゴナク以前は、どのように演劇と関わっていましたか?
穴迫 高校卒業した後に、演劇に興味があった友達とライブハウスで1ステージのみの演劇公演をやって、そのあと大学で演劇サークルに入りましたが合わなくて半年くらいで辞めました。
その頃から少しずつですが、地元の北九州芸術劇場(現 J:COM北九州芸術劇場)の企画や公演に関わる機会をいただけるようになりました。
当時、同劇場には第一線の演出家と音楽家の方がやって来られて、1週間のクリエーションでリーディング作品を作る「リーディングセッション」という名物企画がありました。東京のアーティストと出会えることや出演料をもらって作品に関わることなど、地域で演劇を続けていく一つの希望のようなものだったと思います。2009年に桑原裕子さん(KAKUTA)の『甘い丘』で同企画のオーディションを受け、俳優として出演したのがその後につづく演劇活動の第一歩でした。
──北九州でのスタートから、その後、京都、東京と、活動場所が展開していったのですね。さらに遠く、東北の岩手県宮古市でもワークショップをされているのを知って驚きました。
穴迫 当時、北九州芸術劇場でお世話になっていた坂田雄平さんが、いわてアートサポートセンターに移られて、その縁で宮古市でのお仕事もご一緒させていただくようになりました。
坂田さんとは北九州で全長 60メートルの走行するモノレールの中で演劇を上演するという、なかなかに攻めた企画を一緒にやっていました。60メートルの端から端までお客さんに同じものを見せるのはなかなか難しく、また、走行音があるのでセリフも届きにくい。そういった状況でどうやって作るかをみんなで考えるっていう……。
とても特殊な体験で、自分の演劇キャリアに与えた影響はとても大きいと思います。前例がないものを、悩みながら作っていくという経験です。
──他にもそうした特殊な演劇があるのでしょうか。
穴迫 旦過市場という、いまだに木造で残っている全国的にも歴史の長い市場が北九州にあります。閉店している店舗もほとんどなく、祝日になると人通りも多い場所です。
あるとき、その市場の一角に「スタジオタンガ」というイベントスペースができまして、その会場を使って演劇を上演してほしいという話がありました。そこで、旦過市場の店主さんにお話を伺い、市場と個人の歴史を演劇の物語として記録していく「旦過市場で観る演劇」シリーズを企画しました。70代以上の店主さんも多い中、その人たちが引退したり亡くなられたりしても、エピソードが遺されて上演が続いていくことで旦過市場の歴史を支えていけるかもしれないと考えました。
2年半くらいで3つの短編作品を作って、4本目と5本目の稽古をしていたところでパンデミックに陥ります。さらに旦過市場が大きな火事に遭いまして、スタジオは無事でしたが、並びのお店は被災し、復旧に時間かかる状況でした。復旧したら上演も再開しようという話でしたが、そこでふたたび火事になるんです。被害は甚大でスタジオも焼けてしまいました。
現状は企画がストップしている状況ですが、なんとか再開する方法がないか今も考えています。
──土地に根付いた演劇ってありますよね。その場でしか見られないというのは残念ではありますが……。いや、しかしツアーで公演されたりも結構しているのかな。
穴迫 我々の活動は初期からツアー公演というより、僕が移動することで京都公演は京都のチームと、東京公演は東京のチームと作るという滞在制作型を実践しています。
先ほどお話しした『波間』がまさにそうですね。最初は俳優さん、照明家さん、音響家さんとも、こういう人にお願いしたいと人伝にご紹介いただき、出会って、相談してを繰り返しています。京都では数年前にようやく創作環境やチームが整ってきた実感があり、そのあたりから京都も拠点のひとつとして考えるようになりました。
東京では今まさに地盤を固めている最中でして、今後数年繰り返して作っていく中で、そうしたチームみたいなものができたらいいなと考えています。
──プロデュース公演と劇団の間みたいな感じで、しかもそれが全国でチームが作れて公演できるという……面白いお話ですね。2月に予定されている新作『エァ』はどのようなものになるのでしょうか。
穴迫 「知らない人」をテーマにしようと思っています。
前提として、遠い国の戦争で死んでいく人たちがいたり、傷ついたり悲しんだりしている人がいて、それらはどう頑張っても自身の身近な人のそれ以上には悲しめないという現実があるように思います。知らない人よりも身近な人を大事にするのは当然ですけど、それだけで良いとは言い切れません。
東京で電車に乗った時、車内に空き缶が転がっていました。ちょうど座席が埋まるくらいには混んでいましたが、その席の間をずっとコロコロ転がっているのに誰も拾わない。
確かに危険物の可能性もあるし、人目にも晒されるし、拾うことによる得はないとは思います。ただ、空き缶を拾うことと戦争の話は遠いようにも感じますが「自分のこと/それ以外のこと」という割り切られたものをその車内の雰囲気から受け取り、それが少し怖く感じたのも事実です。引いては現在の排外主義や差別主義の加速に、無意識に加担してしまっているんじゃないかとすら感じました。
コンビニの店員さんに対する態度とかも、会計のシステムくらいに捉えちゃう時があって「人に対する態度じゃなかったな」と反省することがあります。
もし店員さんが知っている人だったら「朝から大変ね」とか「今日も頑張って」とか、多少なりとも雑談を交わすはずなのに、それが知らない人というだけで人間とすら思えなくなるっていう、このギャップ がもうちょっと小さくていいんじゃないかと思うんです。
(2026.1.6)
※新作「エァ」は2/27〜3/1京都芸術センター、3/19〜22森下スタジオにて上演。
ブルーエゴナク |