■書評■
牧原憲夫『山代巴 模索の軌跡』

評者・水溜真由美



 山代巴(1912-2014)は、マルクス主義の立場に立つ女性作家・運動家であり、農村女性を描いた『荷車の歌』(1956年)で大衆的な人気を博した。今日山代は一般読者の間では忘れられた作家となっているが、戦後民衆文化史研究の文脈において注目を集めつつある。と言っても、山代巴研究は緒に着いたばかりである。生前の山代巴と交流を持ち、『山代巴文庫第二期』(全8巻、径書房、1990-1996年)全巻の解説を書き『増補 山代巴獄中手記書簡集』(而立書房、2013年)を編んだ牧原憲夫によって上梓された本書は、山代巴についての本格的な研究書としては初めてのものと言ってよい。

 著者は、山代巴についての膨大な資料を丹念に調査した上で、歴史家らしく緻密なスタイルで本書をまとめている。本書の冒頭において、著者は山代の作品を、①農村女性を主人公にした創作、②被爆者の実情を訴えた著作・農村女性の生活記録の編纂、③戦後の自身の活動を総括した著作、④戦前の革命運動に関わる著作の四つの系列に分類しているが、本書はこれらすべてを包括する山代の活動・著作の全体像を総合的に描き出そうとする試みである。

 全10章からなる本書は時系列的に構成され、山代巴についての伝記としても読める。以下では各章で扱われる内容をごく簡単に紹介する。第1章「自分を生きる」では、広島県栗柄の没落する旧家に四女として生まれ、上京して女子美術専門学校に入学し、プロレタリア文化運動に出会い、曲折を経て山代吉宗と知り合うまでの経緯が、第2章「山代吉宗とともに」では、結婚後京浜工業地帯で女工となり、労働者のオルグ活動に携わり、検挙・投獄され敗戦直前に釈放されるまでの経緯が、第3章「「岩でできた列島」に根をおろす」では、敗戦後共産党に入党し、広島で夏期大学運動や農民運動など地域の運動に関わったことが、第4章「鏡としての作品」では、故郷の農村における日常生活の中から「蕗のとう」(1948年)など農村女性を主人公とした作品が書かれたことが、第5章「片隅の沈黙を破る」では、1952年以後峠三吉らの要請によって広島市に移り、被爆者の詩集・手記集の編纂や被爆者の組織づくりの活動に関わったことが、第6章「民話の発見」では、婦人会など市民向けの講演活動を行う中で「民話」の価値を発見したことが、第7章「『荷車の歌』をめぐって」では、農村女性の日野イシをモデルとして『荷車の歌』が書かれ大きな反響を呼んだことが、第8章「民話から生活記録へ」では、『民話を生む人々』(1958年)における戦後の運動の総括を経て、「タンポポ」、「みちづれ」、『記録 地方 私と私のまわり』などの生活記録運動に関わったことが、第9章「戦前の総括そして離党」では、1963年から67年まで戦前の左翼運動の体験を描いた小説を『アカハタ』に連載する傍ら、丹野セツ研究会を組織して戦前の共産党の運動の問い直しを行い、やがて離党に至ったことが、第10章「「近代」への批判と『囚われの女たち』の完結」では、高度経済成長を経験しマルクス主義的な進歩史観を修正する一方で、戦前の左翼運動の体験を元にした大河小説『囚われの女たち』(全10巻、1980-86年)を執筆したことが書かれている。

 上の記述からわかるように、本書を読めば、山代巴の遍歴――いつ、どこで、どのような組織や媒体に関わり、どのようなテーマに集中的に取り組み、どのような作品を書いたのか――を辿ることができる。その過程は、サブタイトルが示唆するように、直線的でなく試行錯誤を含んだ「模索の軌跡」であった。しかも、山代の遍歴は空間的かつ階層的な移動を伴うものだった。山代は、女子美術専門学校入学のため上京してから晩年に至るまで広島と東京を中心に各地を転々とした。戦中には、女工として工場労働をした経験を持ち、さらに東京拘置所、三次・和歌山の刑務所で計4年以上を過ごした。著者は「おわりに」において、山代は、「知識人にも生活者にも密着せず、農村にも都市にも定住せず、前衛でも大衆でもなく、それらの「はざま」に位置するほかなかった」(391頁)と述べている。こうした山代の「模索の軌跡」を描くことで、著者が浮かび上がらせた山代巴像はいかなるものだろうか。

 第一に、民衆の中に身を投じた作家・運動家像である。山代巴は旧家の生まれであり、当時の女性としては例外的に高い教育を受けた。しかし、左翼運動と出会って女子美術専門学校を中退し、女工として労働者の組織活動に関わった。また監獄では、不幸な境遇ゆえに犯罪に手を染めざるを得なかった多数の女囚と接触した。さらに敗戦後は、農村の文化運動など地域の運動にコミットし、共同体の圧制に苦しむ農村の女性や地域社会の中で沈黙を強いられる被爆者と交流した。山代の民衆に対する評価は両義的だった。権力にすり寄り足を引っ張り合う民衆のメンタリティーが侵略戦争を主体的に支えたことを鋭く批判する一方で、民衆の間に潜む権力に抵抗する知恵や批判精神に可能性を見出した。また山代は、虐げられた人々の持つ尊厳や主体性(「一途な焔」)に対する共感を持ち続けた。投獄中に、左翼運動に批判的だった両親の理解と、刑務所の所長や看守など権力の側に立つ人々の共感を獲得した経験は、人間に対する信頼の基盤となった。

 第二に、民衆を啓蒙するためのユニークな工夫である。山代巴は、知識階級出身の運動家として民衆の啓蒙と組織化の活動に取り組んだが、左翼運動家の陥りがちな「正しい理論」の押しつけには批判的だった。戦前に女工として働いた旭硝子の工場では、休憩時間に水鏡を作り、ノート「星の世界」を回覧することで女工たちと仲間関係を築いた。戦後の運動では、「民話」によってコミュニケーションの通路を開いた。山代によれば、「民話」とは、人々が本音を言えるようにその場の「空気を変える」役割を果たし得るもので、民衆の知恵に裏打ちされている。山代は人前で話す際、概念的な言葉を避け、地域の伝承に根ざすたとえ話を用いるなどして人々の共感を獲得した。また、山代の創作した物語も「民話」につらなるものであった。それらは、語りの伝統や民衆との結びつきの中で生まれ、弱者への理解や我が身への反省を促す機能を含んでいた。著者は、こうした観点に立って『荷車の歌』の再評価を行っている。農家の女性の苦難に満ちた一生を描いた『荷車の歌』は、しばしば微温的、現状肯定的として批判的に捉えられてきた。しかし著者は、『荷車の歌』が平凡な農民の生活を外側から裁断することなく内在的に描き出したからこそ、沈黙を強いられた民衆の言葉を引き出すための「呼び水」としての役割を果たし得たと位置づけている。

 第三に、「敗者の遺産」、即ち失敗の経験に学ぶ姿勢である。山代は1932年に共産党に入党し東京の城北地域で文化運動に参加し検束された。当時の共産党の運動は厳しい弾圧下でスパイが横行するなど混乱を極めた。1933年には幹部の獄中転向を引き金として大量転向が生じた。以後の冬の時代をマルクス主義者として生きた山代は、検束前の「はねあがり」を反省し、夫の山代吉宗と共に、教条主義的・党派的な党の体質を問い直しつつ、手探りで労働者の組織化を試みた。吉宗は、磐城炭鉱争議の苦い経験から、山代に向かって、労働者への知識の「押し売り」を戒め、「質問の出る雰囲気」を作り「主体性の発芽の状況を整える」必要を繰り返し説いた。つまり、戦後の「民話」に結実する民衆の啓蒙・組織化のための方法的な模索は、戦前の革命運動における失敗の経験に根ざしている。失敗の経験から学ぶ姿勢は、中井正一や武谷三男の示唆も得ながら、戦後の運動においても維持された。

 他にも、本書には山代巴をめぐる今後の研究の土台となる貴重な示唆が多数含まれている。以下では、そのいくつかをごく簡単に指摘しておきたい。

 第一に、フェミニストとしての山代巴について。今後の山代研究の一つの焦点はフェミニストとしての位置づけ及び評価になるだろう。小坂裕子『山代巴―中国山地に女の沈黙を破って』(家族社、2004年)に収録されている座談会「女たちの山代論」では、加納実紀代らが「ウーマン・リブ以前」ともいうべき山代巴の女性論の古さを指摘している。加納らの見解にはうなずける点もあるが、本書を読む限り、山代の追求・実践したシスターフッドや女性視点に基づく革命運動の批判は、ウーマン・リブの先駆として評価されるべき点も多いように感じられる。少なくとも、本書が描く山代巴のユニークな女性運動の実践やフェミニズム的な視点を含んだ作品は、敗戦からウーマン・リブまでの時期をフェミニズム運動の停滞期とするような従来の見方を相対化する意味を持つものであろう。

 第二に、戦後民衆文化運動への貢献について。本書は、敗戦から1950年代にかけて、山代が地域の運動家・作家として精力的な活動を行ったことを明らかにしているが、これらは同時代の運動と関連づけつつ再評価されるべきだろう。谷川雁による痛烈な山代巴批判にも拘わらず、筆者には、山代こそ谷川の言う「工作者」であったのではないかと感じられる(谷川雁は、「工作者の死体に萌えるもの」(1958年)において、「大衆と知識人のどちらにもはげしく対立する工作者の群……双頭の怪獣のような媒体を作らねばならぬ。彼等はどこからも援助を受ける見込みはない遊撃隊として、大衆の沈黙を内的に破壊し、知識人の翻訳法を拒否しなければならぬ。すなわち大衆に向っては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する」と述べた)。と同時に、知識人と大衆の間に深い溝があった1950年代において、山代が『サークル村』と同一の問題に直面していたことを痛感し、山代が言葉や表現の問題に着目しつつ、ユニークな仕方でこの溝を超えようとしたことを意義深いと感じる。

 第三に、戦前の革命運動に対する総括について。敗戦後まもない時期に、『近代文学』に集った平野謙、荒正人らは戦前のプロレタリア文学運動について内在的な批判を提起した(「政治と文学」論争)。山代巴は平野、荒と同世代で、革命運動をめぐる共通の世代体験を持っていた。それどころか、1940年まで非転向のまま運動を続けたこと、敗戦直前まで投獄されていたこと、監獄で非転向の夫と死別したことを考えれば、平野、荒はもちろん、埴谷雄高などと比べても山代の運動体験はディープであり、運動から受けた傷もはるかに深かったと想像される。本書が明らかにしたように、山代は戦中から革命運動に対する内在的な批判の視点を持ちそれを実践活動に反映させる努力を続けたが、党員であった山代は、敗戦後すぐにこの問題を公然と提起することができなかった。しかし、本書が明らかにしているように、山代は一生をかけて(特に丹野セツ研究会において)戦前の運動を総括した。革命運動の内在的な乗り越えという課題は、革命運動そのものが弱体化してしまった今日過去の問題となってしまった感があるが、山代が生涯をかけてこの問題を取り組んだことは、正当に評価され記憶されるべきだろう。
(2015年、而立書房、四六判上製428頁、本体2400円+税)



水溜真由美(みずたまり・まゆみ)
北海道大学大学院文学研究科准教授。日本思想史専攻。著書に、『「サークル村」と森崎和江——交流と連帯のヴィジョン』ナカニシヤ出版、2013年など。