■書評■
鏡としての山代さん──『山代巴 模索の軌跡』を読んで

評者・先﨑千尋



(1)ぼくと山代さん

 山代巴さん(以下山代さん)が亡くなってもう11年になる。それを知らされたのは、牧原憲夫さんからだ。10年経ったことをうかつにも気がつかなかった。
 牧原さんは一昨年12月に而立書房から『増補 山代巴獄中手記書簡集』を出された。今回の『山代巴 模索の軌跡』も同じ而立書房からだ。
 山代さんに関する本は一気には読めない。この本は赤線を引きながらゆっくりと2回。本文だけで400頁を超す大作だ。農協の仲間・田所剛さんから映画「荷車の歌」を借りてもらい、それも観た。この映画も二時間半と長い。
 この本を紹介する前に、ぼくと山代さん、そして牧原さんのことを記しておく。
 山代さんとの出会いは何度か書いたが、1970年、群馬県前橋市の永明農協。友人の三宅義子さん(ウーマンリブの旗頭だった。後にアメリカに留学し、山口県立大学で女性学を講義)と一緒に始めた永明自由懇話会という女たちの集まりだった。全中の高城奈々子さん、丸岡秀子さんらを呼んで、自由なおしゃべりを楽しんだ。山代さんを呼んできたのは三宅さんだった。
 ぼくが農村で活動したいと考えたのは大学に入る前だった。岩手の大牟羅良、秋田県横手のむのたけじ、小繋事件の戒能通孝などの影響を受けていたが、当時は(あるいはずっと)肩ひじ張って、という固い構えだった。
 山代さんは違っていた。緊張感なしにじわじわっと迫ってくる。ああ、こういう生き方があるんだ、と思った。一年半後、ぼくはやっと茨城の生家に戻った。それからも山代さんとのえにしは切れなかった。
 『山代巴 模索の軌跡』の作者・牧原さんが山代さんに出逢ったのは1970年代初め、というからぼくとほとんど同じ時だ。彼の連れ合いの暁子さんとは1965年の岩手県小繋合宿で一緒だった。彼女は子ども会、ぼくは農村調査の担当だった。小学校の体育館に寝泊まりし、昼は援農、夜は聞き取り調査の10日間だった。
 暁子さんの母親・菊枝さんが山代さんと丹野セツ研究会などを一緒にやっていたことはあとで知った。
 牧原さんはその後、東京で山代巴を読む会を組織し、原田奈翁雄さんが山代巴さんの本を出すために作った径書房が出した山代巴文庫の解説を書いた。

(2)山代さんと水戸たべものの会

 1988年3月27日に水戸市の社会センターで水戸たべものの会10周年の集いを開いた。その前からぼくは山代さんに会報を送っていたし、日野に住んでいた彼女に会の仲間の海老沢とも子さんと一緒に会いに行った。その時に水戸にお出でいただくことを頼んだかどうか、記憶にない。
 会員以外の人も加わり、総勢で20人くらいが山代さんの話を聞いた。講演というよりも民話の語りを聴く、という形だった。山代さんはその時76歳だった。
 冒頭、何故ぼくらの会に来てくれたのかと次のように話してくれた。「私はお祝いに来たわけだけど、この会の魅力は、一人ひとりがみんな自分というものを大事にしながら、誰かが言うからついていくんじゃなくて、独創的で自主的なところです。民話というものはもともと独創的なんですね。この会は小さくて目立たないけれども、一人ひとりが独創的だというのが私にとっては大変魅力です」。
 たべものの会の集まりということからか、山代さんは、あり余る時代(現代)の食生活から話を切りだし、グルメ宅急便、大手資本と個人の店と政治に話が展開。御自分の食文化、元気になるために食べることに及び、三次刑務所での漬けものを例に挙げ、「味は人間の和と敬う心が作り出す」と話した。
 次いで、「食と民話と文学と」に移り、酒と竹の話、荷車の歌、たんぽぽとみちづれ、山代巴を読む会のことなど具体例を挙げながらぼくたちを話の中に引き込んでいく。山代さんが戦後すぐに強い影響を受けた中井正一のおはこだった日本人の「あきらめ根性」「みてくれ根性」「抜け駆け根性」がどうして生まれたのかを語り、1936年に中井が書いた「集団は新たな言葉の姿を求めている」という文も読みあげた。
 山代さんが話したのは一時間半くらいだっただろうか。その時の記録「民話的に言い伝え得る食文化」を読むと、30年近く経つが、あの感動が生き生きとよみがえってくる。

(3)これまでの三冊の評伝

 「1970年代はじめまで山代さんのことはなにも知らなかった」という牧原さんがどうして山代さんの評伝を書こうとしたのだろうか。
 山代さんの評伝はこれまでに三冊出ている。最初は神田三亀男『山代巴と民話を生む女性たち』(1997、広島地域文化研究所)。その一二年前に『日本農業新聞』に掲載した「山代巴小伝」に加え、山代さんを知る人々の聞き書きなどを収録している。
 次いで、小坂裕子の『山代巴──中国山地に女の沈黙を破って』(2004、家族社)。山代さんを、フェミニズムの立場から距離を置いて見ている。「はじめに」で「山代文学には、宣伝扇動、啓蒙はもちろん、『かくあるべし』という押しつけがましさも説教もない。ただ、傾聴する者にしか聞き取れず、受け止めようとする者にしか語られることのない、農村女性の歴史と現実、暮らしと心模様が活写されている」と書いている。この本の第二部「座談会『女たちの山代論』」には牧原さんも入っている。
 三冊目は佐々木暁美の『秋の蝶を生きる──山代巴 平和への模索』(2005、山代巴研究室)だ。山代さんが亡くなったあとに出版されている。佐々木さんは広島県三良坂町(現・三次市)に「山代巴記念室」を開設した有志の一人で、最晩年の山代さんへの聞き書きが本書だ。
同書の最後に「作家山代巴は、戦中戦後の激動期を人間解放と自治自立を求めて一途に闘ってきた。その文学は、常に弱者である非抑圧者、被害者の立場に根をおろした運動の中から生まれ、『平和の原点を形象化』したものである。この混迷を深める時代にあって、彼女の歩みは、歴史を知り、人間を知り、連帯することの意味を探求し、憎しみの連鎖を断ち切り、われわれが今をどう生きるかを、時を超えて問いかけてくる」とある。

(4)牧原さんと山代さん

 山代さんの「後見人」牧原さんが本書を書くきっかけは、あとがきに次のように記されている。
 「新自由主義による優勝劣敗・自己責任論の横行、東日本大震災と福島第一原発事故でも変わらぬ孤立分断と生きづらさにみちた社会のありよう、安倍晋三政権の異常な国家運営、排外主義の浸透といった現実に直面して、『わかりあおうと努めずに連帯や平和は創れない』という『荷車の歌』のメッセージや、『単に人間性の解放を叫ぶことが如何に絵空事であるかは、今日(1957年!)といえどもいささかのかわりもない』という宮本正義さんの評言(第七章)を思いかえし、山代さんの歩みをわたしなりに書き遺しておきたくなった」。
 山代さんの書き遺したものはたくさんあるが、牧原さんはそれらを次のように分類する。
 第1:農村女性を主人公にした「蕗のとう」「或るとむらい」「いたどりの茂るまで」「芽ぐむころ」「おかねさん」『荷車の歌』などの創作
 第2:被爆者の実状を訴えた『原爆に生きて』『この世界の片隅で』や、農村女性の生活記録『叢書・民話を生む人びと』の編纂
 第3:戦後の自らの活動を総括した『民話を生む人びと』「(武谷三男「文化論」解説)『連帯の探求』「(叢書・民話を生む人びと)解説」などの著作
 第4:自伝的小説の「道くらけれど」「濁流をこえて」『囚われの女たち』や『丹野セツ』「黎明を歩んだ人」など、戦前の革命運動にかかわる作品

 牧原さんは、これまでにこの四つの系列を総合するような論考や評伝は少ないと捉え、「戦後日本の現実を『岩で出来た列島』と認識し、農村女性がみずからの本音を語りはじめるとともに被害と加害の連鎖に気づく、そのための一粒の種子になろうと努力しつづけた山代巴の、泥にまみれ曲折に満ちた模索の軌跡を、山代の著作を手がかりにたどりなおそう」とした。
 本書の章建ては次の通り。
  第1章 自分を生きる
  第2章 山代吉宗とともに
  第3章 「岩でできた列島」に根をおろす
  第4章 鏡としての作品
  第5章 片隅の沈黙を破る
  第6章 民話の発見
  第7章 『荷車の歌』をめぐって
  第8章 民話から生活記録へ
  第9章 戦前の総括そして離党
  第10章 「近代」への批判と『囚われの女たち』の完結
  おわりに

 最後に山代さんの年譜と文献目録、引用参照文献があり、全体で26頁という膨大なもの。各章の終わりには脚注があるが、これも膨大で、第2章ではなんと122もある。牧原さんが、山代さんの著作だけでなく、関連する文献を集め、総合して読みこなしていることがわかる。
 ぼくは牧原さんに、本を読んで感想を書きます、と礼状に書いた。感想を書くには、牧原さんほどではないにせよ、改めて山代さんの書いたものを読み返さなければならない、と今は思っている。うかつに、感想を、と書いてしまったという忸怩たる思いが残る。
 山代さんは戦前から多くの人との出会いがあり、それを大切にしてきたし、こやしにした。広島の農村や被爆者の多くの人々はむろん、中井正一、武谷三男、丹野セツ、原田奈翁雄、阿部謹也など。牧原さんもその一人だ。  山代さんがぼくらに伝えてくれたことはいろいろあるが、「民主主義の土台となる基本的な心構えを、『秘密の守れる懐に』『弱者への批判は補足に』『表現力をもつ』という三つのものさしを持つこと」だと教えてくれた(本書143頁から)。「鏡による気づき」も大事なことだ。
 山代さんの作品を読んでいて、戦前のことをどうしてあのように鮮明に書けるのか、不思議だった。それがわかったのは、山代さんは画家だったから。画家はデッサン、スケッチがあれば、それでいつでもきちんとした絵を描けると聞いて、なるほどと思ったのだ。
 『荷車の歌』については批判も多くあったようだが、ぼくは論評できない。「心の虫を生かす」という言葉にハッとさせられた。映画を改めて見たが、活字とは違うものを感じた。
この映画は農協婦人部員の10円カンパで出来た。上映会は全国各地で開かれ、1000万人以上が見た、と言われている。ぼくも高校生のころに私の住んでいる集落(北城)の農家の庭先で夜に見た記憶がある。演劇にもなり、どこかで文化座の舞台を見ているが、記憶にない。
 『武谷三男著作集6 文化論』の山代さんの解説を見てみた。なんと100頁を超える。解説というより一つの論文である。その中に、「うそをついてはいけないか」についての論評がある。
 権力者は昔からうそをついてきた。人民には「うそをつくな」という教育をしてきた。人民は権力者にうそをつかないから、支配しよくなるのは当然だ。そのことを信じ、どんなうそでも信じてしまう。
 今、安倍さんは平気でうそをつく。「原発は安全です。福島の海はクローズされていて、汚染水は外に出ていません。集団的自衛権の行使で自衛隊員のリスクは高まりません」等々。
 あいまいな概念を使うのは非常に危険である。例えば、地方というのは国と地方との権力の関係。自治体というのは自ら治めるという自治・自由の関係。わが国では2000年の地方分権一括法により、国と地方公共団体は従属から対等・平等の関係に変わったはずだが、実際には前と同じ構図だ。
 今どこの市町村でも「地方創生」。ぼくは地方という言葉にずっと違和感を持ってきたが、だれもそのことを言わない。再生ならまだ分かる。ズタズタにされたマチやムラをよみがえらせる。でもそれは地方ではなく地域だ。今は、国の指示に従って早く地方版総合戦略を作り、カネをいっぱいもらおう。そんな動きしか見られない。地域の住民は蚊帳の外だ。
 茨城では全市町村でプレミアム商品券が発行される。発売は過熱化し、警察まで動員されるところもあるようだ。わが那珂市も完売。「地方」を「創生」するなら、スーパーなどの大規模店などでの利用は止めるべきだと考える。国がカネを出して、住民のカネを引き出し、東京にカネを吸い上げる。こんなことで「地方」は「創生」されるはずがない。ふるさと納税制度も同じだ。いずれもレース(競争)だ。国民はそのレースに駆り出されている。
 話が横道にそれた。
 今の社会。「近代という時代は、国境によって住民を囲い込み、国民としての自覚(わが国のために殺せ、死ね!)を要求し、際限のない欲望と自己責任の競争社会の網の目に人びとをからめとっていく」。憲法違反の戦争法案が国会にかけられ、国民をなめきり、夏までに成立させるとアメリカに約束する。アメリカの制度に日本の仕組みを合わせ、農林漁業などを完璧につぶしてしまうTPP。「美しい日本」も残らない。
 この牧原さんの本は山代さんの評伝なのだが、ぼくにとってはやはり鏡。自分のやってきたことを振り返り、今の立ち位置をはっきりさせる。
牧原さんは「あとがき」にこう書いている。「巻末に掲げた作品を読み通してあらためて感じたのは、山代巴という運動者の、ゆたかでするどい感性や『素朴な』と評される文章を支える、志操のしなやかな硬質さと屈折の深さであった」。ぼくはこの本を読んで、模索を重ねた山代さんの魅力を充分に感じ取ることができた。
最後は、牧原さんと同様に、山代さんが好きだった魯迅の言葉を置く。
 「おめでたい英雄よ、君は前へ進みなさい、見すてられた現実の現代は、後から君の進軍旗をうやうやしく送る」。
(2015年、而立書房、四六判上製428頁、本体2400円+税)



先﨑千尋(まっさき・ちひろ)
1942年茨城県瓜連(うりづら)町生まれ。慶應義塾大経済学部卒。茨城大学人文学部市民共創教育研究センター客員研究員、一般財団法人総合科学研究機構特任研究員、環境自治体会議監査役、NPO法人有機農業推進協会顧問。農業。